発見される形 (2009/11/11)


続 ナイフ職人へのみち

柄材は自作できそうなので、自作することにした。 そのほうが面白いしな。

刃は、どうせ SKH なんて硬くて研げないとかいって人気ないし、 刃紋とかあったほうが 見掛けでウケるし、部分焼き入れは多分頑丈なので、それでやることにしよう。 これが良いのは、鋼が SKS3 でいいから材料で断然安くなる。 SKHは、部分焼き入れなんてできないしね。 熱処理は自分でやるので、ほぼタダ。 SKS3 では、サブゼロをどうするか、だが、 これもメタノールとドライアイスを使えば、 ある程度自分でできないことはない。

こうすれば、一本1000円くらいでできそうだね。 だから100ドルで売っても元がとれるよ。 ハイスは鋼種変更オプション。 鋼の値段も違うし熱処理も外注だから高いんだよ、という説明はありえるストーリー。 柄の固定ネジも自作すればもっと安くなるが、これは 旋盤、ダイス、タップが必要なので、すぐには無理だね。

装飾について

唐突だが装飾について考えてみたい。

じつは、ずっと考えていたのである。

装飾は、本質的突破が当面不可能になってもなお、 何かを成さねばならないという状況において発生する。 本質的突破が無理なので、どうでもいいところをいじくってお茶を濁す、 というと著しく悪く聞こえてしまうが、 実際のところ、これは否定できない側面なのである。 造形における、いわば一種の心理的な逃避である。

プログラミングでいえば、インデント等の表記を統一したり 変数名をいじくってみたりあるいは自明なバグの修正である。 仕様やアルゴリズムが煮詰まったときに、暇潰し的にとっておく仕事である。

装飾というものは、眼を楽しませるためにある。 そのイメージは、あまり深刻に心に訴えかけて来るとか、深く想像力を刺戟するとかいうものであってはならず、 (中略) したがって、装飾は型にはまったものを好んで用いる。 その起源が何であれ、すでに充分に象形文字化してしまった形象を自由に使うのである。

これはどこの誰とも知れん奴の意見なんかじゃありませんよ。なんせ Kenneth Clark 卿のお言葉ですからね。 (ザ ヌード P. 444)

この状況は、勢いやヤル気が余っている場合にも起こり得るので、 別に必ずしも装飾は悪だ、というわけじゃない。 黄金期におけるそれは、本質的問題を解決してもなお 余りある志と才能の、余裕の表現でもある。 だが、そういう都合のいい時代は短い間しか続かないもので、 後に続く、やる気にも才能にも恵まれながら課題に恵まれなかった人達は、 その行き場の無いエネルギーを装飾に注ぎ込みます。 なぜなら、空白は怠惰と無能の証であり、すなわち犯罪だからです。

そして、ある段階でみんなそれに飽きてしまい、 原点回帰が叫ばれるようになる。 これは一旦は飽食で太った奴が痩せようと頑張っているのと同じ事で、 いわば究極の無駄であり、すなわちそれこそが装飾が最終的にたどりつく様式なのである。

たとえば、「わびさび」とか「モダニズム」とかいうようなものがそれである。

モダニズムは自称機能主義ですが、実際には、あれは機能とは全く何の関係もなくて、直線と直角を使った装飾です。

アポロや航空機のような、 機能が形態に直結した造形はモダニズムとは全く無縁な 造形語彙と文法から構成されています。 すなわち、その対偶は、

モダニズムでは形態と機能は直結していない。

ということです。

これに対して機能が形態に直結している場合では、装飾する余裕も理由もありません。 形態は機能に最適化されているので、「どんな形にしようかな」という 勝手で暢気な問題が問われる事が無いのです。 航空機は左右対称ですが、それは古典主義的秩序の表現ではなく、 非対称では飛ばないからです。 篠原一男がよく好んで引用したアポロ月着陸船の変てこな形は、 個々の必要な部品を必要な場所にくっつけてできたものであり、 どれか一つが無かったり、あるいは違う場所に付いてたら、必須な機能は損なわれるのです。

これらの正解は人の好み意向とは独立に客観的存在としてあり、設計者はそれを創造するのではなく、 「発見」するのです。

形態に関する「創造」と「発見」の対立に関する命題は、 その逆も成り立ちます。 ミケランジェロによれば、真の彫刻とは石に「埋まって」いるものであり、 彫刻家の仕事とはそれを掘り出す事に他なりません。 すなわち「発見」されなかった形は、装飾なのです。

Knife design

Often said that knives are so much versatile that they can be used for almost any purposes we can imagine. After this notice, it is also said that such a versatility belongs to the blade itself. Or even as if the knife itself is the one who does such vast kind of jobs.

It is not, obviously.

Then, who does such a wide range of choirs after all? Of course it's our hands who bears this multi-functionality, without no doubt. The versatility belongs to our own hands.

It is that simple thing but very often ignored by blade designers.

To design a multi-functional blade, we should concern not to bother our hands, not to kill their flexible improvisation by getting in their way. Which means the handle should never have any kind of guides to force or even show where to put our fingers. Such a guide will be comfortable only in particular way of handling blade; prevents holding other way, which inevitably damage our imagination in using knives.

In other words, a design which is comfortable in one particular way of holding gets a hot spot in other way of holding. The handle of useful knife should at least allow, hopefully encourage our hands to hold it in many ways, any way we like, as long as we like.


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